メッシと滅私

tatsuamano2015-05-04

こちらでも初夏の雰囲気が感じられるようになってきました。天気のいい日が多く、日も長くなり、何もかもがまるで輝いているかのような季節です。この季節だけ見るとどこに行ってもなんて素晴らしいところなんだろうか!と思ってしまうので、こちらでの物件探しは敢えて暗い冬にするのがいいのではないかといつも思います。

さて、「メッシと滅私」という少し前から気になっていた本を読みました。
ここのところヨーロッパで活躍する日本のサッカー選手には並々ならぬ関心をもって注目しています。立場的にいろいろな面で共感する点が多いのですが、何より日本代表の結果が出ない時に頻繁に行われる、「個か、組織か。」という議論には、自分の研究分野についてもよく考えさせられます。この本と、その中でしばしば引用されている「ヨーロッパを見る視角」という本のメッセージのひとつは、「世間」という集団の中に個人が属している日本と、尊重される個人が集まって社会を形成しているヨーロッパでは、個人と社会の関係性に根本的な違いがあるということです。これらの本を読んで常日頃から感じていたことがだいぶ理解できたような気がしています。

「個」のヨーロッパ、というのは日常的によく感じさせられます。
まず多くの判断基準が本当に個人に任せられ、それが尊重される傾向があります。極端に言えば、人が何をやっていようが自分が何をするのかは勝手です。例えば日常生活でも、初めの頃は「あのイベントは他の人は行くんだろうか」とか「普通この場面ではどうするんだろう」など、自然と「正解」を求めようとしていたのですが、この考え方は世間で期待される振る舞いが決まっている日本的な思考なんだなと納得させられました。そういった場面ではよく up to you だと言われます。ということはどっちが正解…?などと思わずさらに考えてしまうのですが、これが本当の意味での up to you なんだということが次第に分かってきました(とは言っても常に例外もあるのですが…)。
こういった個人による判断が尊重されることには、他人にあまり影響されることなく各々の能力を最大限発揮できるという利点があるように思います。もちろん個人が持つべき権利の主張や行使がしやすい点も利点と言えるでしょう。前例や常識にとらわれずに判断するという意識は、新しい研究分野を生み出す原動力になっているのかもしれません。日本で私が学んできた研究の進め方とは、しっかりした先行研究のレビューから自分の研究課題の位置づけを行うというのが大前提でしたが、どうもこちらでは先行研究との比較というのがそこまで重要視されていないように感じます。第一に自分のやりたい研究課題があって、その絶対的な重要性や結果の面白さを人に伝えようとするという意識が高いのです。また、自分の考えや概念を確立して積極的に主張するというのはどうやら若いうちから教育されているようで、学部生のレポートなどを読むと、バックグラウンドとなる知識もあまりないときからこんな主張までするのかと、良くも悪くも時々驚かされます。

一方、そういった個が集まって社会を形成しているという意識も、各々に強く感じます。会話をしていて特に感じさせられるのは、社会というものは自分たちで作るものだから、必要があれば変えていくものだという意識です。これは即ち政治や社会の在り方に対する関心につながりますから、政策や人々の生活を変えていかなければならない環境保全という分野が欧米で発展してきたのにも納得させられます。さらに言えば新しい研究分野を作りだし、それを主流化させていくということが得意なのも、個人が社会のような大きなものを作っていくことに慣れているからなのかもしれません。

そんな欧米的な「個」の意識が如何なく発揮されているなと感じさせられた経験が、つい先日もありました。
それはある研究テーマに興味を持った人が集まって、ブレインストーミングからプロジェクト案作成まで半日でやってしまいましょう、という試みです。当日は生態系の復元に興味を持った30人以上の人が大きめの会議室に集まりました。その所属は大学から周辺の保全研究機関まで様々で、立場や年齢も幅広い研究者や保全関係者です。まず座っている順に3グループに分けられ、research, practice, influencing othersというお題それぞれについて、必要だと思うことをブレインストーミングします。このブレインストーミングというのが自然にできるのは極めて欧米的だと思います。なかなかこういった場面で発言するのは自分にとっては長らく難しかったのですが、それは英語の問題もさることながら、「今は話の流れが違う」など他人の発言との関係や、「自分も何か発言することが期待されているのでは」といった自分の立場など、いわゆる周囲の「空気」を読もうとしてしまうことがもう一つの大きな問題なのだということに気付きました。本当のところは、こういった場にいる人たちは例え私が何も言わずにずっとそこに座っていようと何とも思わないのです(いること自体に気付いていないかもしれません)。一方でどんな発言であろうと最低限の尊重はされます。そんな場で何も言わないことはいないことと同じなので(日本ではいることが重要という場面もあるかもしれません)、自然と発言しようという気にもなるのです。この日はその後2時間ほどで、ブレインストーミングの結果から各人が興味をもった案への投票、特に人気のあった内容について志願者をリーダーとしたプロジェクト案の作成、その案をベースとした意見交換までが行われました。

そんな様々な違いを体感しながら生活していると、改めて日本という国は欧米の国とは全く別の軸上に位置しているのだなと思います。
もちろん女性の社会進出などヨーロッパに比較して遅れている部分も多いのですが、日本の国としての歴史は長く、経済や社会の発展は欧米並み、もしくはそれ以上に進んでいる部分もあるでしょう。それでいながら、このグローバライゼーションの進んだ今も、これだけ欧米と全く異質の文化や社会の在り方が根付いているのは、少なくとも私にとっては誇らしいことです。

そんな欧米人とは異質の日本人の良さは何だろうということもよく考えます。「世間」や、もっと具体的に言えば組織や他人のために何かができる滅私の精神というのは、日本のよさのひとつと言えるのかもしれません。自分にはいわゆる会社人の経験はありませんが、自分の父親の世代が組織のために懸命に働いてきたことが、日本の驚異的な経済成長につながったことくらいは想像できます。保全の現場で言うならば、異なる利害関係をもった関係者間で合意形成をする場合などでしょうか。欧米の人たちが持つ強い信念と強烈な行動力が世界を変えていく例は数多くあるでしょうが、同時にそれが引き起こす衝突も同じだけ多くあるように思います。自分の権利や希望を主張するだけでなく、一歩ずつお互いに引いて合意する、そんなことは日本人の方が得意なのではないだろうかなどと考えたりします。日本人が国際感覚を身につければ、立場や文化の多様性を考慮した柔軟な意思決定を率先することができるのかもしれません。また、ゼロから何かを作り出す、変えていく、というところには日本では意識の変化や多大な労力がかかるにしても、一度世間がその方向に進み始めたら、迅速に大きな社会の変化が期待できるのかもしれません。
共同研究や教育、研究室の運営ではどうでしょうか。私がこれまで関わったり見たりしてきた欧米的なやり方は、極めて分業的且つ個が優先された進め方で、アウトプットは個々の能力の単純な合算という感じがします。一方組織や他人のために滅私できるということは、1+1が2以上のアウトプットにつながるのでしょうか。それとも個々の発揮できる能力が1未満になってしまうのでしょうか。もし前者であるならば、どんな時にそれが達成できるのでしょうか。
さらに、そんな滅私の精神が環境に対しても発揮されないだろうかなどと夢想したりもします。人新世(Anthropocene)と呼ばれる現代において、既に人類の欲望を最大限に満たしながら環境保全を達成することはほぼ不可能と言ってもいいでしょう。それならば持続可能な発展を実現していくためには、日本人の滅私の精神こそが重要になるのではないだろうかなどと考えたりします。
ずいぶんと話が飛んでしまいましたが、個が必要、個が必要、と言われ続けるサッカー日本代表をヨーロッパから見ながら、そんなことを考えました。