残留派の中心から見たブレギジットと環境科学
私にとってイギリスで研究を行うことの大きな魅力の一つは、人材の盛んな交流でした。日本の大学に様々な都道府県の出身者がいるのと同じように、イギリスの研究拠点には世界中から様々な人々が活発に出入りしており、もちろんその背景にEUという枠組みが多くの人にとって就労・就学を容易にしていたことがあるのは疑いようのない事実です。
そのような考えは、ケンブリッジの保全科学コミュニティに属するほとんどの人にとっても共通するものであったに違いありません。EU残留か否かを問う国民投票から一夜明けた24日金曜日には、EU離脱支持が過半数という結果を受け、これまで経験したことのないような異様な雰囲気がDavid Attenborough Building全体を覆っていました。予想外の結果をすぐには受け止めることができずただ首を振って困惑する人。離脱派の行動に対して憤慨する気持ちを抑えきれない人。あまりのショックに話しているうちに涙を流し始める人等々…。普段から多くの時間を共にしている同僚たちの悲痛な面持ちを前に、とても他人事とは思えずいたたまれない気持ちでした。
既に多くの報道があったように、今回の国民投票の結果は、高所得者層と低所得者層、高学歴と低学歴、若者と中高年、都市と地方、といった従来からイギリスに根付いていた社会構造が色濃く反映されたものでした。(比較的)高所得で高学歴、若者が多い(中規模)都市であるケンブリッジでは、約74%という全国でもトップクラスに高い残留支持率でした。この地図では青い部分が残留派多数の地域ですが、ロンドンの上の方にある小さな濃い青のエリアがケンブリッジです。
ケンブリッジでも大学関係者とそれ以外の住民との間で歴史的に対立構造のようなものがあるそうなのですが、少なくとも大学や研究機関の人々のほとんどが残留派であることには納得できます。EU内での就労・就学の容易さに基づいて、大学や研究機関には非常に多くのEU所属国籍の学生や職員がいます。ケンブリッジ大における非英国籍率は学部→大学院→ポスドクの順に高くなっていき、結果として大学での高い研究水準が世界中から集まってくる非英国籍の研究者によって支えられているといっても過言ではないと思います。一方で、イギリス国籍の学生やポスドクで今後EU内の他国での就学・就労を選択肢に入れている人も多いでしょう。例えばつい先日も、研究室の博士学生がポスドク先としてフィンランドを考えているという話を聞いたばかりでした。EUを実際に離脱することになると、イギリス-EU間の移動にもビザ申請などの手続きが必要になるのかもしれません。こういった手続きは非常に煩雑で、リクルートする側、また応募する側にとっても大きなコストとなり、結果として人材の行き来が阻害されることは想像に難くありません。「非EU移民」の私はイギリスで就労するためにかなりの労力と時間、金額(そしてストレス!)をかけてビザを取得しており、また必ずしも毎回ビザが許可されるとは限りません。一方で例えば、以前の私と同じfellowshipを使って最近ポスドクを始めたスペイン人の同僚は、何の手続きも必要なく、車ですらスペインで使っていたものをそのまま持ってきています。
またこの記事にもあるように、イギリスの科学者の多くがEU残留を支持しているもう一つの大きな理由が研究費だと言われています。2007年から2013年の間にイギリスはEUから約88億ユーロ(9,800億円)の研究費を受け取っているという数字からも分かるように、EUの研究費はケンブリッジの保全科学コミュニティにとっても非常に重要な資金源です。例えばEuropean Research Councilによるグラントは規模も大きく、私の周辺でも応募する人、それを利用してポスドクを雇用する人など多々見られます。また私が去年まで受けていたMarie Skłodowska-Curie FellowshipもEuropean Commissionによる制度です。これらの研究費を包括して管理運営するHorizon 2020というスキームにはEU外から参加している国もあるのですが、EU離脱後も以前と同じように研究費を受けるには、それ相応の交渉と労力が必要になるのではと考えられています。EUからの研究費が減る分国内での資金を増やす、という話もない訳ではないのですが、イギリスの科学予算を巡る状況は近年悪化していることを考えると、あまり信頼できなさそうな話でもあります。
人材の交流、研究費の確保という科学界全体に当てはまる問題に加えて、私たちのような保全科学者にとって見逃すことのできない問題が、EU離脱が生物多様性や環境の保全に及ぼす影響です。例えばイギリス生態学会やRSPBによって、EU離脱が環境政策に及ぼす影響がまとめられています。特にEUレベルでは、これまで数多くの環境政策や法律が整備・施行されてきました。例えばNature Directivesという一連の法律は多くの種や生息地の保全にとって重要な役割を果たしています。またEU予算の40%を占めるCommon Agricultural Policy(CAP)はヨーロッパにおける農地生態系保全の命運を握る存在とも言えます。EUからの離脱は、これらの政策や法律の恩恵からも、改善して機能させていく可能性からも、イギリスを遠ざけることとなります。他にも今回の結果がパリ協定批准など気候変動政策の遂行に及ぼす影響なども懸念されています。
もちろん一部前述したように、例えEUから離脱したと言っても人や研究費の行き来、国を越えての環境保全が不可能になるという訳ではありません。実際に日本を始めとして他のほとんどの国はEUのような超国家組織が不在のまま科学や保全を進めてきましたし、今後もそうでしょう。経済、特に貿易への影響面からも議論されているように、今後決められていくであろうEU諸国との関係性によっては、これまでと似たような形でヨーロッパ全体としての環境科学・政策を推進して行くことも不可能ではないと考えられます。しかし既に前身時代も含めると40年にもわたって人々の生活に浸透してきたEUという枠組みを全て取っ払って、もう一度全てのシステムを一から築き直していくことを考えると、どれほど非効率的だろうかと思ってしまいます。EUに様々な問題があることは事実かもしれませんが、問題がある社会や政府なら、声を上げて内部から変えていく方がまだ効率的なのではないかと個人的には感じます。
週が明けてからも、依然として職場での会話は国民投票の結果についての話題が多くを占めています。72%の投票率で52% 対48%という僅差をどう解釈すべきなのか(この議論に基づいて再度国民投票を行うべきという請願書が多くの署名を集めていますが…)、もう前に進むべきなのか、はたまた独立後EUに残ることを目指すであろうスコットランドに皆で移住すべきなのか…。私の周囲にいる同僚たちの多くは「EU時代」のイギリスしか知らないため、不透明な今後への不安が絶えることはありません。
翻って今回の一件が日本の保全科学者に与える示唆とはなんでしょうか?政策や社会の在り方が、科学や環境保全に及ぼす影響の大きさを如実に表しているのではないかと私は考えます。国民の多くが抱える生活上の不満が、政府による国民投票という意思決定を通して一国の行方を変え、科学や環境保全の将来までも左右して行く。私の知るイギリスの保全科学者たちは、真剣に違いをもたらすことを目指して政策決定や社会にも積極的に関わっている人たちばかりですが、今回の一件でそんな保全科学者たちの声はどれほど無力だったことか…。結果としてこのようなことを防げるかどうかは別として、保全科学に携わる者として、政策や社会がこれからどの方向に進んでいき、それが環境にどのような帰結をもたらすのか、理解・議論して、予見を目指し、またできる限り影響を及ぼしていくことが重要になるのではないでしょうか。政策に関わるのは委員会に呼ばれる大御所だけ、などと呑気に構える訳にはいきません。有権者としての責務を果たすことはもちろんのこと、若いうちから真摯にこういった問題を議論して、境界分野に取り組んでいく科学者を育成していくことも重要になるでしょう。
激動の時代に入っていくこの国で、これから保全科学者たちがどういった考えの下、どのような行動をとっていくのか、今後も注目していきたいと思います。