酒が買えない。

よく日本人やアジア人は年齢よりも若く見られると言いますが、実際そのようで、自分なんて未だに何歳に見られているのかよくわかりません。もう大の大人なのであまり若く見られるのも困りもんです。
先日の金曜のことでした。その日は特に外で飲む予定もありません。そんな時は家でじっくりと飲む地エールが楽しみです。なんせ地エールは自分の中で週一に制限している楽しみなのです。
いつも寄るスーパーでまずはつまみを選びます。こちらに来てから食事はやはり日本の方がいいなと思うことは多々あるのですが、つまみに関してはわりあいと満足しています。サバのスモーク、フィッシュケーキ、生ハム、カニ肉、チーズなど…うろうろと迷った挙句、今日はマグロとコリアンダーのフィッシュケーキに決めました。
次はいよいよ肝心のビールです。こちらのスーパーで売られているビールは大まかにラガー系とエール系に二分されます。ステラ、サンミゲル、ペローニ、1664といったラガー系は普段飲むのですが、地エールは週末だけに限っているお楽しみです。じっくりと吟味します。散々悩んだ挙句、今週のエールをついに決定し、大事にカゴに入れました。
他のこまごまとした必需品もカゴに入れ、いよいよ会計です。実はこれまでも、酒を買おうとしてIDの提示を求められたことが何度かありました。パスポートも国際免許も持ち歩いていないので、提示できるものはありません。が、そんなときは真っ向から自分の年齢を言う、という裏技が効果的であることを経験で学んでいました。さすがに33の大人に対してIDの提示は「念のため」なのでしょう。年齢を言うと大方の店員はちょっと気まずい顔をして、”Sorry …”とレジ作業を進めるのです。
しかも今日は秘策があります。前回その裏技でビール購入に成功した時の店員が、今日もレジに入っているのをあらかじめ確認しているのです。もう間違いはありません。その初老の女性店員は必ずID提示を求めてきますが、前回と同様、真っ向から実年齢を言えばいいのです。
時は10月。新学期が始まった直後で、いつものスーパーにも学生が溢れています。カレッジで友人らと飲むのでしょうか。自分の前後にも学生らしき男女が並び、ジンやらワインやらを抱えています。西洋人の若者は線の細さで大方識別できるのですが、自分の前後に並ぶ男女は明らかに二十歳そこそこです。順々にIDを提示していく様を見ていると緊張が高まりますが、落ち着け、自分はやつらより干支一回り近く年上だ、と何度も自分に言い聞かせます。
そうして遂に自分の番が回ってきました。初老の女性店員(名前は知りませんが、ここでは仮にマーガレットとします)が、レジ台に置かれた僕のエールをじっと見つめます。視線がゆっくりとこっちへ移りました。来るぞ…来る!
「あんた、お酒買おうとしてるみたいだけど、ID見せてちょうだい。」
あらかじめ用意していたフレーズを食い気味にかぶせる自分。
「あいにくIDは今もっていません。ですが、わ、私は33歳です!」
待ち構えすぎて若干噛んでしまったのは失敗でしたが、意味と意気込みは確かに伝わったはずです。言い回しも知っている限り最も丁重なものを選びました。あとは前回と同様、マーガレットが”Sorry…”と気恥ずかしそうに謝るはず…
次の瞬間、ふっと視線を外し僕のエールに目をやったマーガレットの表情に、一瞬陰りが窺えました。彼女がこちらへ視線を戻し、じっと僕の目の底を見つめてきます。流れる時間。続く沈黙。後ろに並ぶ男子学生の唾を飲む音が聞こえてきそうです。
とつぜんマーガレットはブンブンと激しく首を振り始めました。
…?
「やっぱあんたには売れないわー。」
でた−!!英国人特有の日和見対応!こないだ買わせたくせにー!!
一度こうなってしまうと、もう理屈は通じません。真実が何かではなく、自分の判断が重要なのです。審判と同じです。判定は覆りません。
マーガレットは何やら操作をした後、僕のエールを手の届かないところへ遠ざけました。ピピッとフィッシュケーキのバーコードを読むレジの音が空しく響きます。諦めきれず財布をもう一度開きました。大学のカード、クレジットカード、銀行カード…どれも自分の年齢を証明してはくれません。
自分の前でジンを満足げに買っていったあの女の子の歳から10年ほど、自分は何をしてきたんだろうか… 確かに何かを積み上げてきたつもりだったのに… 週末の楽しみのエール一つ買えないとは… Publication listを見せたところで、マーガレットは自分にエールを売ってはくれないでしょう。
フィッシュケーキと電球二つだけが入った妙に軽いバッグを手に外へ出ました。すっかり冷たくなった晩秋の風が、今夜はますます冷たく感じます。
酒が買えない。
早く国際免許をイギリスの免許に書き換えなくては…そんな思いを強くした金曜夜の出来事でした。