倫理観

日本が行っている捕鯨は特にイギリス・オーストラリアから強い反対を受けています。これまで特にそういった議論になることはなかったのですが、少し前に開かれたセミナーが捕鯨を話題としていたこともあって、その後のパブで少し議論をする機会がありました。捕鯨問題の複雑性は既によく知られていることだとは思いますが、身近にいる研究室の同僚何人かと話す中で、この問題がもつ複数の側面や根本にある要因について、初めて自分で実感させられた気がします。
この問題のひとつの側面は、捕鯨が各種の絶滅リスクにどう影響するかという点だと思います。この点については、特にミンククジラなど資源量の多い種がいることや、そういった種では持続可能な漁業を行うことができるだろうということは、よく認識されているようでした。
ただ話を進めるうちに、科学者レベルでも一般的によく理解されていない点があることもよくわかりました。まず日本が行っている「調査捕鯨」という捕鯨の形式。この言葉はまさに独り歩きをして、よくない印象をもたれています。日本はIWCによる商業捕鯨モラトリアム採択に従って商業捕鯨を撤退しているのですが、このことが一般的な科学者にもあまり知られていないという点にも原因があるように感じます。ヨーロッパではノルウェーアイスランド商業捕鯨を行っているため、日本もどうせ行うなら商業捕鯨として行えばいいのではという意見も聞かれました。
「日本では結局クジラの肉は必要とされているのか?」という質問も受けました。こちらの報道などでは、クジラの肉が最終的に余ってドックフードになっているなどと揶揄されることがあります。国内の需要についてはあまりうまく答えることができませんでしたが、少なくとも一部地域において、伝統的に食されてきたクジラが文化の一部であるという点は説明を試みました。ただ、この「文化」の本質を伝えることは非常に困難です。日本が行う捕鯨は先住民生存捕鯨という枠組みでは認識されていない上、そもそも魚と言えば「タラ的」な種かサーモンくらいしかバラエティーがない人々、そして環境のことを考えて菜食主義を貫いている人も少なくない社会では、食文化の多様性という概念自体が伝わりにくいのです。また、反捕鯨の方針が強いオーストラリアにとっては、自国に近い南極海で日本が捕鯨をしていることも問題視されている点であるようです。一方で、一部の団体がとっているような強硬手段では事態を変えることはできないだろうという意見は理解してもらえるようでした。
議論はさらに感情的な側面、そして問題の根本にある部分にも踏み込んでいきました。まず驚かされたのが、同僚がつぶやいた次の発言です。
捕鯨の銛は、クジラの頭に刺さってからボンって爆発するんだよ?」
日本ではあまり聞いたことのない発言に一瞬耳を疑いましたが、このあたりから彼らがもつ意見の根底にあるものがうっすらと見えてきたような気がしました。欧米で捕鯨の問題が議論される際には、捕殺の方法や致死時間がよく争点となっています。こちらでは家畜の飼い方や食肉化の方法なども動物福祉上の観点からメディアでよく話題になっていますから、同様の視点が捕鯨にも向けられることは理解できないわけではありません。議論もここまできたらと思い、ではイギリスでも行われているシカの狩猟とはどう違うのかと正直に聞いてみました。その答えは、「シカは銃で即死だから。」とのことでした。私はシカの狩猟に同行したことはありませんが、これは正直かなり怪しいと思います。国際的な批判を受けて捕鯨やイルカ漁での致死時間を改善させているという話は聞きますが、シカの致死時間の話は聞いたこともありません。
その後に続いた会話によってようやく、最初からどうも噛み合わなかった議論の根底にあるものが明らかとなりました。
「彼らは脳も非常に大きいし、社会活動を行っている(から殺すことには反対だ)。」
隣に座る同僚の発言に思わず耳を疑うと、向かいに座っていた博士学生も
「うん、彼らはとても高度な社会活動を行っている。」
と真顔で応じます。
「クジラは大きいし神秘的で特別。」
そんな意見も聞かれました。それらの発言の真意をまだ信じられない心もちのまま、最後の質問のつもりでこんなことを聞いてみました。
「では、増えている種を対象に、瞬時に捕殺できる方法で捕鯨を行うとすれば、それは受け入れられると思う?」
「科学者には受け入れられるかもしれないけど、多くの人には受け入れられないと思う。」
別々の場面で聞いた異なる二人ともにほぼ同じ答えを口にしましたが、その顔には彼ら自身も感情面では受け入れられないという様子がまざまざと浮かんでいました。
クジラ類は知能が高いから特別という考え方は、過激な抗議活動をする団体やメディアが用いる論理だと思っていた自分にとって、常日頃から科学を共に行っている研究室の同僚がそのような考えを持っているということには、心底驚かされました。こちらに来て初めて本当の意味でのカルチャーショックを受けた気がしています。知能の高いクジラは駄目、シカは問題ない、そんな同僚の意見を前に、真っ先に浮かんだのは有意水準5%の仮説検証パラダイムの問題についてでした。5%を過信することの問題を理解できる科学者が、クジラとシカに境界線を引いてしまうことの理由が正直私には理解できません。しかしだからこそ、彼らの考えの根底にあるものが科学的思考というよりは、文化や宗教、そしてそれに基づく倫理観なのだろうということが実感させられました。もちろんこれは私の同僚4、5人との議論で感じたことですので、こちらの他の科学者が一般的にどのように考えているのか、そしてそういった倫理観の違いが捕鯨問題にどの程度貢献しているのかは分かりません。しかしながら、もし科学者にすら根付いているこういった倫理観がこの問題の根本にあるのだとすれば、問題を解決することの困難さは想像に難くありません。
こちらで生活するようになって、ちょっとした慣習や人との距離感の違いを感じながら、そんな中でも、人のためになることはする・迷惑になることはしない、など自分が育ってくる過程で培われてきたごく当然な道徳や倫理観は、行動判断の重要な基準になると感じていました。今回の一連の議論では、そんな根本的な倫理観ですら文化によっては異なる可能性があるのだということを実感させられました。と同時にこれは、今自分が当然だと思って判断の基準としている倫理観が、全く通じない世界があるかもしれないということを示しているのだと思います。保全科学という分野に携わっている以上、これは大きな教訓となりました。
今回の議論は、彼らにとっても大きな衝撃であったことはその反応から感じることができました。願わくは今回の出来事が、彼らにとっても自らの倫理観から反捕鯨の姿勢を強めるだけでなく、倫理観が全く異なる世界があるということを知るきっかけになってほしいと思います。が、国際感覚が豊かと思われがちなヨーロッパ人でも、西洋以外の世界を本当の意味で経験している人は少ないので、これはなかなか難しいことかもしれません。