リジェクトと健全な研究生活

今思えばずいぶんと先見の明がある西洋人だったと感心する2週間前のケンブリッジでの写真。

それはともかく。
投稿した論文の査読結果に一喜一憂することは研究者にとって宿命なんでしょうか…
こちらに来てから始めた研究もそろそろ論文化の段階になっており、先週は二つの論文について「憂」寄りの経験をすることとなりました。
ひとつの論文は、着想から1年、2年近くになるでしょうか。紆余曲折を経てようやく投稿できた論文です。ほっとしたのもつかの間、数日後に雑誌から返事が。もうその時点でほぼがっかりな訳です。が、結果は少し意外なものでした。担当編集者は気に入ってくれたようですが、書き方がいろいろ気に食わないと。この結果は面白いが、こうこうこう言う問題もあるし、このままでは誤解を招きかねない。ついては指摘を考慮して修正すれば査読に回してあげますよ、と。
これまた研究者の性と言いますか、反射的に却下されなかったことで嬉しく思ってしまうのですが、その後共著者とも話して彼らの考えも聞きながら、なかなかこれも変な判断だなと思うようになりました。編集者の言うように直しても、査読者が気に入らなければそれでおしまいな訳ですから。査読者が気に入ってくれても修正は必要でしょうから、一回余計に修正をしなければならないことになります。そもそも編集者のコメントには勘違いも含まれているようです。
とは言うものの、優秀な編集者のコメントは、嫌々ながらも対応しようと考えていると、大抵役に立つものだと気付くことが多々あります。今回も悶々としながら数日対応を考えているうちに、自分の研究についてより深く知ることができたように思います。さて修正稿はどのように受け取られるでしょうか…。
もう一つの原稿、こちらは二カ月ほど査読に回り、期待を持たせておきながら結局却下という結果でした。ひとりの査読者はとてもポジティブで、ほぼ全ての評価が高評価。もう一方はとてもネガティブで、ほぼ全ての評価が低評価。辛辣なコメントをつけています。編集者は後者に同意して却下と判断する、とのことでした。
論文が却下された時ほど、いろいろな想いが駆け巡ることはありません。
ダメだったかー、こんなに時間かかって結局却下…(時間返せ!)
(少し冷静になってコメント読んで)いやいやいやそれはないでしょうー!勘違い甚だしいってー。何この査読者2?あーもうとりあえず放置。
(さらに時間をおいて)いや結局のところ自分の研究の価値が大してなかっただけでは?そもそも雑誌に載る載らないで一喜一憂する自分ってどうなんだ?
(査読結果にはいつもあっさりなビルを見て)あの悟りを開くにはあとどのくらいかかるんだろうか…いやでもビルだって実は家で歯ぎしりして悔しがってるかもしれないし…むしろこの悔しさをばねにしてさらにがんばるべきでは?
と、そんな一連の思考を行ったり来たりです。
最後に結局思い知るのは、そんな感情も全て自分で、全て研究のプロセスの一部なんだろうなということです。時間も労力もかけて完成させた研究だから思い入れがあるのは当然なこと、それが認められず批判されれば悔しいのも当然。雑誌に載る載らないに振り回されるべきでないという良心も当然ならば、いい雑誌に載せたいという野心も当然なこと。むしろそんな一連の感情を行き来することは、研究者として健全なプロセスなのかもしれないと感じました。
思いっきり悔しがって、査読者を恨んで蔑んで(笑)、でもやっぱり自分の研究が評価されなかった事実を認めれば、それが次の研究を進める強い動機になっていくでしょう。自分の研究をさらに改善できるチャンスをもらって、他にもまだまだやっていける研究があることに感謝したいと思います。
現在の研究の評価方法が続く限り、このような思いは今後も抱いていくことになるでしょう。研究の価値は連続的なもの。雑誌に載る・載らないは断続的なもの。ボーダーライン前後では運のようなものが大きな影響力を持つことは容易に想像できます。「査読結果は宝くじ (lottery) だ」といつも明言するビルの言葉が身に染みます。リジェクトは健全な研究生活の一部だと自分に言い聞かせ、もっとたくさんのくじを引く機会を作っていきたいと思います。
とはいえ、次はやっぱり当たりくじがいいよ…?