文章

9月に入ったなと思っていたのもつかの間、いきなり冬のような気候になってしまいました。秋はどこに行った?と取り乱しかけましたが、よく考えれば季節は4つというのも固定観念なのかもしれませんね。いずれにせよ、冬の前に秋という季節があることは素晴らしいと思います。

9月3日:さわやかな秋晴れ

9月12日:冷たく暗い雨の朝

9月13日:同上(以降、繰り返し…)
さてここのところ、次のフェローシップのためのプロポーザルを書いています。論文やメール、一般の方に向けた文章、査読レポートからブログに至るまで、研究者としてのかなりの時間を文章を書くことに費やしていますが、新しい研究のプロポーザルというのは中でも特に難しいと感じています。いい文章を書くためには、(1)根底となるアイディアや思考、(2)それを伝えるためのロジック、(3)ひとつひとつの文の分かりやすさ、という3つの要素があると思いますが、新しいテーマのプロポーザルというのはその全てが不完全な状態であるところから始める場合が多々あります。
自分がずっと思い描いてきた研究でついに出た成果を使って論文を書く場合などは、1も2も固まっていますから、書きたくて仕方ないというくらいの時もあります。逆に言えば、今の自分のようになかなか筆が進まないという時は、1の部分がはっきりしていないということを表しているのだと思います。
自分が書いた文章を人に見てもらったり、人の文章にコメントしたりする機会も多くありますが、そういった際に役に立った・立てた、と感じられるのは、3かせいぜい2の部分に関するコメントであるような気がします。いずれにせよ、いい文章を書くためには、1の部分をはっきりとさせておくことが重要であると改めて感じます。文章にはやはり自分の頭の中が如実に反映されますね。
さて先日、(恐らく)スペインの方のこんなブログから、linguistic injusticeという言葉を初めて目にしました。
Clavero M (2010) ‘Awkward wording. Rephrase’: linguistic injustice in ecological journals. Trends Ecol Evol 25: 552–553.
こういった言葉にするとずいぶんと大ごとなようにも感じますが、確かに母語は自分で選べるわけではない上、アカデミアでは確実に影響力をもつため、injusticeと言ってもおかしくないでしょう。そして少なくともアカデミアにおいては、このinjusticeについて真剣に対処されることはほとんどないように思います。上記の意見論文では雑誌側による英語校閲などを改善策として挙げていますが、各論文の問題がinjusticeといえる3の部分だけに起因するのか、それとも1や2の部分にまで関係しているのか区別するには相当の労力がかかるはずで、雑誌や出版社が一つ一つの投稿論文についてそれを完璧にできるとは到底思えません。
一方もうひとつ挙げられていた、英語が母語の人たちの意識を変えていくというのは重要だと思っています。文章にしても議論にしても、例え3の部分が言語のために完全でないにしても、それは1や2の部分に問題があるというわけではないということが伝われば、相手の態度が変わることをこれまでも経験してきました。そしてそれを理解してくれた人は、その後も非ネイティブに対する態度が変わっていくかもしれません。
さらにもうひとつ、自分の中での意識も重要だと思います。英語がネイティブのようにできないのは当然で、それは自分の能力や人格を否定するものではないと切り離して考えることが、英語環境で研究生活を続けていくためには大切だと感じています。
そんなわけで英語能力の向上はもちろんですが、それ以上にアイディアやロジックを明確にし、常にいい文章が書けるような頭の状態にしておくことを今後も目指したいと思います。このブログの文章の意図が、読んでいただいた方にいま一つ伝わっていないとしたら、それはすなわち3はもちろんのこと、1と2の部分も自分の中ではっきりしていなかったということで、もう一度出直してきたいと思います。
そんな諸々を考えながら、週末はプロポーザル書きを放棄し、黙々とジグソーパズル作成に取り組みました。この2年で3作目となります。そろそろ趣味はジグソーパズル、と公言してもいいくらいかもしれません。

どうしても無地の部分を残してしまいます…