ミミジロコバシミツスイ(white-plumed honeyeater)が示す長期体サイズ変化は温暖化が原因か?

Gardner, J.L., Amano, T., Mackey, B.G., Sutherland, W.J., Clayton, M. and Peters, A. (in press) Dynamic size responses to climate change: prevailing effects of rising temperature drive long-term body size increases in a semi-arid passerine. Global Change Biology.
約2年前にオーストラリアの研究者と始めた共同研究がようやく形となりました。
オーストラリアに生息するwhite-plumed honeyeaterという鳥の23年に渡る捕獲データを用いて、気候変化に伴う体サイズ変化とそれに関わる駆動因について検証を行っています。事前の仮説では、平均気温の上昇は体サイズの小型化に、熱波の頻度増加は体サイズの大型化につながると考えましたが(仮説についてはこちらを参照)、実際には平均気温の上昇、熱波の頻度増加は共に体サイズの大型化につながっているようで、結果としてこの種の平均体サイズは近年大型化していました。この二つの変数の間には相関もあり、単独の効果がうまく検出できなかったという可能性もあります。一方、他にも生産性や降水量など体サイズと相関を示す環境要因は複数あり、長期的な種の体サイズ変化を決定するメカニズムの複雑さと、それを非常に分散の小さい体サイズデータから明らかにすることの困難さを思い知らされた研究でもありました。
筆頭著者であるジャネットのオフィスに缶詰め状態で研究を進めていた合間に連れて行ってもらったバードウォッチングで、まだ見たことのなかったwhite-plumed honeyeaterを発見した時の興奮はいい思い出です。


Image credit: Ron Knight, via Flickr Creative Commons licence.

生物多様性にとって景観の異質性は常に「善」?

今年に入ってから最近の共同研究から共著となっている論文が立て続けに発表となりましたので、簡単に紹介していきたいと思います。
Katayama, N, Amano, T., Naoe, S., Yamakita, T., Komatsu, I., Takagawa, S., Sato, N., Ueta, M. and Miyashita, T. (in press) Landscape heterogeneity – biodiversity relationship: effect of range size. PLOS ONE.
S-9プロジェクトで片山君が中心となり、モニタリングサイト1000 森林・草原及び里地調査における日本全国の陸生鳥類データを解析した成果です。様々な環境要素が混在している景観の異質性は生物多様性にとってプラスであるとしばしば言われますが、この論文ではその一般性について検証を行っています。
歴史的に景観異質性が維持されてきたと考えられる日本では、異質性を好む種が広域種となっていることが考えられます。広域種、狭域種でそれぞれ景観異質性に対する反応を検証したところ、想定通り、広域種は異質性の高い景観で種数が多くなっていました。各種の個体数が示す反応も同様で、ウグイスやホオジロのように異質性の高い景観で個体数が最も多くなるジェネラリスト種が広域種には多く含まれていました。一方、狭域種は異質性の低い景観(開放地もしくは森林)で種数が多くなっていました。各種の個体数が示す反応も同様で、例えばジュウイチやアカショウビンのように森林景観で最も個体数が多くなる種、またはコヨシキリのように開放地景観で最も個体数が多くなる種、といったような各生息地のスペシャリスト種が狭域種の多くを占めていました。
この結果は二つの重要な視点をもたらします。ひとつは、生物多様性保全における景観異質性のとらえ方です。保全上の優先度が高いと考えられる狭域種に対しては必ずしも異質性が正に働かない可能性があり、保全対象の種特性を考慮した景観管理が重要となるでしょう。ただもちろんこの「異質性が正に効くのは広域種」という結論が未来永劫続くとは限りません。里山景観の減少に伴ってサシバの分布域が狭まっているように、今後の土地利用変化の傾向によっては、異質性に依存する多くの種が狭域種となっていく可能性も否定できません。
もうひとつ示唆されることは、景観要素と多様性(種数)の関係が、その地域の種プールによって決められているという可能性です。歴史的な植生・気候変化や近代の土地利用変化によってどのような特性を持つ種プールが形作られてきたかを理解することが、地域によって異なる景観要素−多様性の関係を理解することにつながると考えられます。
 ホオジロ

3月のいろいろ

3月は一時帰国などでバタバタしていたこともあり、ブログの更新ができませんでした。少し駆け足になってしまいますが、いくつか書きたかったことをまとめてみます。
まず2月末から3週間、ちょうど1年振りに一時帰国をしました。久しぶりに日本に滞在していろいろと思うことはあったのですが、今回特に実感したのは日本における食文化の多様性でした。もちろん以前から経験していることなのですが、久しぶりに訪れたスーパーでの魚種の多さには改めて驚かされました。
東京
ケンブリッジ
東京や静岡の複数のスーパーで魚種数を数えてみましたが、30種を超えているところが多々ありました。ケンブリッジのスーパーで通常見られるのは10種前後です。それぞれの国で近海に生息している魚種数がどのくらい違うのかは分かりませんが、日本がより多くの魚種を一般家庭で食の対象としていることは明らかです。これらの食多様性が日本人の福利に大きく貢献していることも間違いありません。何より、一時帰国中に東京や静岡、そして今年は広島で味わった食事や酒が、どれだけ人間を幸福な気持ちにしてくれるかは、身をもって実感することができました。
一方で、この日本の食文化が水産資源に大きな影響を及ぼしうるものであることも周知の事実です。多くの種で資源状況が注目されているマグロは今でも刺身コーナーの主役となっています。静岡のスーパーでクジラ肉が普通に売られていたのにも、小さいころからずっと見てきていたはずなのですが、改めて驚かされました。

これらの種が今後も存続していけるよう、持続可能な消費をしていく責任が当然日本人にはあると私は思います。しかしながら、欧米の保全コミュニティーにおいてはクジラ類に限らず資源状態に懸念がある種を食の対象とすること自体を疑問視する考えが少なくありません。最たる例がベジタリアンという考え方でしょう。畜産業が生態系に及ぼす影響を懸念して、食料供給の効率を上げるためにベジタリアンの普及を提唱する保全科学者は数多くいます。その中で、資源状態に問題を抱えながらも30種以上の魚を食べ続ける日本人の行動は、なかなか受け入れ難いものなのだと思います。もちろん、あいつらには分からない、と敵対することは簡単でしょう。しかし一国だけ閉鎖空間で生きているわけではない現代においては、できることならばお互いに理解しあえる関係を目指していきたいものです。
「文化」の違いと言ってしまえば簡単ですが、それだけで理解が進むとも思えません。私たちの生活にとって、クジラの肉がなくなること、マグロの刺身が食べられなくなること、そうやって食材がひとつひとつなくなっていくことが、どのような意味をもつのでしょうか?それはどれだけ大切で、どれだけ今後守っていきたいものなのでしょうか?ウナギがひっそりと姿を消していたスーパーの片隅で、そんなことをぼんやりと考えました。

滞在最後には生態学会にも前半だけ参加し、市民調査シンポジウムでの短い発表と、フェノロジー変化と分布変化の関係について口頭発表を行いました。多くの方々と久しぶりにお話でき、おおいに刺激を受けましたが、今年は何より山浦さん、杉浦さんという、それぞれ学生時代、つくば時代からお世話になっているお二方が宮地賞を受賞されたということで、他の受賞者の方々によるものも含め、受賞講演は大変楽しませていただきました。イギリスの生態学会でも若手向けの賞はありますが、受賞講演は行われず短い挨拶のみです。このように若手・中堅の研究に対する想いを聞けるというのは素晴らしい機会だなと改めて感じました。

日本からこちらに戻ってきてすぐに、研究室の同僚ホセの卒業式に招待され参加することができました。式の前には所属カレッジで招待した家族や友人と昼食を共にします。ここではカレッジ長からの挨拶もあります。食後にはコーヒーを飲む家族や友人をよそに、本人達は式のリハーサルを。

ガウンのフードは赤が博士、青が修士、白が学部でファーがついているものはどこそこの専攻、など細かく分類されています。練習が終わると、卒業式が行われるセネートハウスに向け、各カレッジの前から行進の開始です。

喜怒哀楽の詰まった数年間の想い、学問を修めた誇り、そして少しの恥じらいを胸に(想像)歩きます。

観光客が多く集まるキングスカレッジ前の目抜き通りもズンズンと歩いていきます。

セネートハウス(下)の内部では、他のカレッジからの卒業生と合流し、多くの家族や友人の見守るなか、ひとりずつ跪いて学長(?)からラテン語の言葉を受け、証書をもらって退場。一連の式次第を終えて出てきたホセは、感極まった中にも笑顔のいい表情で、見ているこちらも微笑ましい思いでした。

さて、その次の週は毎年ケンブリッジで開かれているStudent Conference on Conservation Scienceのボランティアです。今年も多くの国から学生の参加者が集まりました。日本からもここ数年で唯一ではないでしょうか、今年は北大の桜井君が参加しており、少し話すことができましたが、いい経験ができていたようでした。

コーヒーやランチ、ディナーの準備、ポスター会場の準備などを手伝いましたが、ほとんどカフェでアルバイトしているようだった去年に比べると、新しく大学のサービスを利用(去年の業者は打ち切り(笑))したことでずいぶんとスムーズな進行でした。

今年もこれらの手伝いがメインで口頭発表を聴くことはほとんどできませんでしたが、最終日には複数の参加者から直接感謝の言葉をかけてもらい、疲れも吹き飛びました。SCCSは今やオーストラリア、インド、中国、アメリカ、そして新しくハンガリーでの開催が決定しています。小規模な学生向けの学会であるからこその、様々な国からの参加者との密接なコミュニケーションを味わってみたい方には是非お勧めの学会です。
http://www.sccs-cam.org/

SCCS後には、3月一杯で海外学振の期間を終え帰国した植松君の個人的送別会を。動物学部では唯一の日本人同僚として、定期的にいろいろと話をすることができ楽しかったです。新天地でもますますのご活躍をお祈りします。
さて、ケンブリッジでは例年よりも早く迎えた春もそこそこに、新緑のまぶしい初夏の雰囲気すら漂ってきました。夏時間に変わった3月末からは、あんなに暗かった冬の雰囲気をもう思い出せないほどに明るい日々が続いています。また冬が来るまで存分に日光を楽しみたいと思います。

開花時期を早めるか、それとも分布域を変化させるか

新しい論文が出版となりました。
Amano, T., Freckleton, R.P., Queenborough, S.A., Doxford, S.W., Smithers, R.J., Sparks, T.H. and Sutherland, W.J. (2014) Links between plant species’ spatial and temporal responses to a warming climate. Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences 281: 20133017.
イギリスの植物開花時期データを用いた研究は2009年から行っていますが、2010年の一本目以来4年ぶりに論文を出すことができ、嬉しく思っています。
今回の論文で検証した仮説は、「気温上昇に対して開花時期を十分に早められている種では、分布の北上が起きていないのではないか」というものでした。
近年の気温上昇に伴う分布域の変化程度は種によって異なり、その原因としては種による分散能力の違いや生息地の連結性など多くの要因が挙げられてきました。今回の研究では、生物によるもう一つのよく知られた反応、フェノロジーの変化が、分布域変化の種による違いを説明するのではないかと考えました。フェノロジーの変化も分布域の変化も、気候が変化した際に生物が気候ニッチ(生息時空間の気候条件)を維持しようとする「気候ニッチの保守性」によって起こると考えられます。それならばその両者には相補的な関係、つまりフェノロジーの変化で気候ニッチを維持していれば分布域変化では維持しておらず、フェノロジーの変化で気候ニッチが維持できなければ分布域変化によって維持しているという関係、があるのではないかと考えました。
2010年の論文では、歴史的な市民調査データを用いてイギリスの植物405種について、開花時期の変化を定量化することができました。今回の論文では、Atlas of the British & Irish Floraに基づいてDoxford & Freckleton (2012)が整備した過去2時期の分布域データを合わせて利用することで、300種近い種について、過去数十年の開花日変化、分布域変化、そしてそれぞれの反応によってどの程度気候ニッチが維持されているのかを定量化し、比較することができました。
その結果分かったのは以下のようなことです。まず、多年生の植物や、気温に対する開花日の反応(1℃の上昇に対して開花日がどれだけ早まるか)が弱い種、そして気温に対する開花日の反応に時間的ラグがある種(6月の開花日が2月の気温に影響されるなど)で特に、過去数十年の間に開花時期の平均気温が上昇していました。つまりこれらの種は、上昇する気温に開花日の変化だけでは十分に対応できなかった(気候ニッチを維持できなかった)と言えます。次に、開花日の変化だけでは気候ニッチを維持できなかったこれらの種は、特に分布域(平均緯度と分布の南端)が北上していることが示されました。この傾向は特に一年生の種で強く見られました。最後にこの結果として、特に一年生の種は開花日変化と分布変化少なくともどちらかの反応によって、気温が上昇している近年においても気候ニッチを維持しており、つまり気候ニッチを維持するためのこの二つの反応は相補的な関係にある、ということが分かりました。
例えば、Rue-leaved Saxifrage (Saxifraga tridactylites)という一年生種では、過去50年で開花日が約11日早まり(下図)、その結果開花時期の気温はあまり変化しませんでした(開花日変化による気候ニッチの保守)。

そしておそらくその結果として、この種の分布域は同時期に北上しておらず、平均緯度はむしろ0.07度南下していました。

青:1987-99年に新たに記録(新規定着)、赤:1930-60年のみに記録(地域絶滅)、黒:両時期に記録された地点
一方、Blue Fleabane (Erigeron acer) という同じく一年生の種は、過去50年の間に約3日しか開花日は早くなっておらず、結果として開花時期の気温は有意に上昇していました。

そして恐らくその結果、この種の分布域の平均緯度は同時期に0.13度北上していました。

正直言って、今回確認された時間的反応と空間的反応の相補性はあまり強い関係ではありませんでした。ただこれはあらかじめ予期していたことでもありました。例えば、開花時期の気温はもちろん植物の適応度を決定する唯一の要因ではありません。分布域の変化にもこれまで知られてきたように様々な要因が影響を及ぼします。今回用いたデータも完璧なものであるとは言えないでしょう。しかしながら、その中でもフェノロジー変化と分布域変化がリンクしているかもしれないという可能性を示せたことが、今回の論文の新規性であると考えています。
フェノロジーの変化と分布域変化は、生物が気候変動に対して示す反応として、最もよく知られてきた二つの現象ですが、これまで同時に考慮されることはほとんどありませんでした。今後は、気候ニッチの保守性という同じ枠組みでこの二つの現象を捉えることで、気候変動に対する複雑な生物の応答を、よりよく理解することにつながるのではないかと思います。
この論文は言うまでもなく、イギリス全土、300種近くを対象とした過去数十年に渡る開花日変化と分布域変化という、極めて貴重なデータが存在しないことには実現不可能な内容でした。その点では、1700年台からフェノロジーデータの蓄積があるイギリス植物学の歴史、そして近年のデータ蓄積に多大な貢献を果たしている市民調査、さらにはそれら蓄積されたデータを科学研究のために使いやすい形で整備しているNature’s Calendar, National Biodiversity Network Gatewayに関わっている方々の貢献によって、今回のような新しい仮説が検証できたと言えます。
こうやって出版後に文章をまとめると仮説検証型のとてもスマートな研究のように見えますが、実のところこの研究は、「405種で開花日変化が定量化できた。次はこれを使って何かできないだろうか?」という4年前の曖昧な動機が始まりでした。その後、ビルを始めとした共同研究者とアイディアを出し合ったり、それに基づいて解析してみたり、思っていたような結果が全く出なかったり、ということを繰り返すうちに、ついにたどり着いたのが今回の仮説でした。査読の過程でも編集者と査読者から建設的な意見をもらい、第二稿で論理構成をかなり向上させることができました。これらの過程では心が折れかかって他のプロジェクトに目移りすることも多々ありましたが、それでも周囲の人に助けられながら諦めずにやってきた甲斐があったと思います。
実は今回の論文で明らかになった、多くの英国植物の開花時期に影響する重要な要因とは、奇しくも現在、つまり2月の気温でした。今年のイギリスは暖冬で暖かい日が続いています。先週あたりからケンブリッジのあちこちでもスノードロップなど早い時期の花が見られるようになってきました。いよいよやってくる(恐らく例年より早い)春が待ち遠しい限りです。

オーフス

デンマークコペンハーゲンに次ぐ第二の規模の都市、オーフスに行ってきました。街のほぼ中心に位置するオーフス大学では、生態学の分野では今回のホスト役となったエンス−クリスチアン・スベニング氏らを中心として、生物地理学やマクロ生態学が盛んです。今回は現在取り組んでいる言語の多様性・絶滅リスクに関わるプロジェクトのミーティングと、ビルが基調講演に招待された言語学のシンポジウム出席のために訪れました。
LEGOの本拠地、ビルン空港に降り立つと、いきなりの雪。暖冬の今年にしては珍しいとのことでしたが、やはり北欧に来たなという感じがします。

オーフス大は広大なキャンパスに点在する黄色の建物群が印象的です。内部は北欧の国デンマークらしく、こぎれいな感じでした。着いたその足で食堂に向かい軽食を取った後、早速ミーティングの開始です。

こちらのミーティングで特徴的なのは、ブレインストーミングの時間でしょうか。各メンバーが予備解析の結果や今後の予定を簡単に発表する以外にも、7人全員でテーブルを囲んでアイディアを出し合うという時間が重要視されます。実現可能性や事の大小はひとまず置いて、それぞれが思いついたアイディアやそれに関連する情報を次々と発言し、ホワイトボードに書き出していきます。年齢や立場によらず人間関係が比較的フラットである点も、このような場面ではプラスに働くように思います。半日ほどで、今後できそうな課題、それぞれの担当者やタイムフレームが大まかに決められ、その日の会議を終えました。
夕食はデンマーク料理の店で、カラッと揚げた豚バラとイモ、ビートルートなど。可もなく不可もないという感じ…。あまり特別な名物料理というものはないようで、「デーニッシュとはノーマルという意味。」と自虐的な話も出ていました。
翌日には少し観光も。美術館は屋上に設置されたレインボー回廊(?)が特徴的。

内部を歩くと予想以上に楽しい。

その後大学に向かい、初日にあがった課題についてもう少し踏み込んだ議論を行いました。どの共同研究者も多忙な中、数日という単位で時間を使って一つのプロジェクトについて議論できたのは大変貴重な機会でした。メンバーとの距離感を一層縮めることができたのも収穫だったと思います。
翌日は、"Time and space in linguistics: interdisciplinary computational approaches & cross-creole comparisons" と題したシンポジウムに出席。私にとっては言語学者と出会うのは初めての経験です。以前ビルが言語学者の前で発表を行った際には怒号が飛び交ったとのことで、まずはビルの基調講演を恐る恐る聞き始めましたが…、結果から言えば罵詈雑言などはありませんでした(笑)。ただ、言語の分布や絶滅リスクを考える際に、どうしても環境要因による影響に注目したくなる我々生態学者に対して、言語学者は言語(民族)間での相互作用を非常に重視しており、そんなモノの見方の違いは新鮮でした。
その後は気鋭の言語学者たちによる発表が続きました。多くの発表では、言語の起源や進化について考察するために、系統学及び系統地理学の手法が用いられていました。言語学では、これまで欠けていた定量的アプローチが生態学など他の分野から急激に持ち込まれているそうで、そんな自分たちの研究分野を憂えて、また将来を見据える若手言語学者たちが印象的でした。

その後もお茶の時間や懇親会を通じて、多くの言語学者と交流できたのはとても新鮮な経験でした。こうやって全く異なる研究分野を垣間見ることができると、新たな知に触れるということ自体が喜びであり興奮につながるんだ、という学問の本質を感じられるような気がします。こちらのグラントでは、学会やシンポジウムでの懇親会費はもちろんのこと、インフォーマルな会食費などもカバーされるのが通常であるようです。研究を推進する上で人とのコミュニケーションを特に重要視していることが、そんなところにも表れているような気がします。
最終日にはもう少し街を散策。改装中の植物園を見学させてもらったり、

デンマークでの一般的(と思われる)な食事を楽しんだり。

ひとりになったのをいいことに、ここ10年で急激に店が増えたという人気の寿司も試食。うまい。が、高い!

セブンイレブンがあるのにも驚きましたが、ヤキトリが売られており普通にうまいのも驚き。

雪に見舞われた初日の後も連日小雨が続いていたため、イギリスに戻るとこの国ですらまるで明るく暖かい国であるかのように感じました。今度はまるで雰囲気が変わるという夏にも訪れてみたいものです。

新年

明けましておめでとうございます。昨年中も多くの方々に大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

昨年はとても研究に集中することのできた一年であったと思います。保全科学における4つの障壁についての論文から始まり、水鳥の絶滅リスク分布評価についての途中経過を3月の生態学会で、言語の絶滅リスクと駆動因についての成果を8月のインテコルで発表することができました。後者二つはまだ最終的な形では公表できていませんが、渡英前後から継続して行っているプロジェクトの成果が出てきていることは嬉しく思います。数日前には、やはり数年にわたって取り組んできた、植物の開花時期変化と分布変化の関係についての論文が受理されるという嬉しいニュースもありました。こちらは今度の生態学会でも発表予定の内容です。

その他多くの研究者やインターン生、学部生などとの共同研究を行う機会も飛躍的に増えた一年でした。生活や言葉の面での慣れも相まって、研究課題そのものはもちろんのこと、様々な人の研究に対する姿勢や保全に対する考えに触れる機会も多くなったように思います。そのような経験を土台に、保全科学に対して真に貢献のできる研究を行うことが当面の目標です。そのような研究を評価できる目を養い、自分自身でもその点で納得のできる研究を行っていきたいと思います。

また、海外で生活していることもあってか、自分のアイデンティティについて考えさせられる機会も少なからずありました。そんな中で目指していきたいと感じているのは、芯の部分では本当に自分が大切としたい信念を保ちながら、その他の部分では柔軟性を持ち合わせているような人間像です。普段から常にそんなことを意識しているわけではありませんが、新年を始めるこの機会に改めて記しておきたいと思います。

それでは今年が皆さまにとってもよい一年となるよう、お祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

こちらでの年明けの瞬間は、毎年恒例のビックベン・ロンドンアイ大爆発(テレビ経由)でした…

倫理観

日本が行っている捕鯨は特にイギリス・オーストラリアから強い反対を受けています。これまで特にそういった議論になることはなかったのですが、少し前に開かれたセミナーが捕鯨を話題としていたこともあって、その後のパブで少し議論をする機会がありました。捕鯨問題の複雑性は既によく知られていることだとは思いますが、身近にいる研究室の同僚何人かと話す中で、この問題がもつ複数の側面や根本にある要因について、初めて自分で実感させられた気がします。
この問題のひとつの側面は、捕鯨が各種の絶滅リスクにどう影響するかという点だと思います。この点については、特にミンククジラなど資源量の多い種がいることや、そういった種では持続可能な漁業を行うことができるだろうということは、よく認識されているようでした。
ただ話を進めるうちに、科学者レベルでも一般的によく理解されていない点があることもよくわかりました。まず日本が行っている「調査捕鯨」という捕鯨の形式。この言葉はまさに独り歩きをして、よくない印象をもたれています。日本はIWCによる商業捕鯨モラトリアム採択に従って商業捕鯨を撤退しているのですが、このことが一般的な科学者にもあまり知られていないという点にも原因があるように感じます。ヨーロッパではノルウェーアイスランド商業捕鯨を行っているため、日本もどうせ行うなら商業捕鯨として行えばいいのではという意見も聞かれました。
「日本では結局クジラの肉は必要とされているのか?」という質問も受けました。こちらの報道などでは、クジラの肉が最終的に余ってドックフードになっているなどと揶揄されることがあります。国内の需要についてはあまりうまく答えることができませんでしたが、少なくとも一部地域において、伝統的に食されてきたクジラが文化の一部であるという点は説明を試みました。ただ、この「文化」の本質を伝えることは非常に困難です。日本が行う捕鯨は先住民生存捕鯨という枠組みでは認識されていない上、そもそも魚と言えば「タラ的」な種かサーモンくらいしかバラエティーがない人々、そして環境のことを考えて菜食主義を貫いている人も少なくない社会では、食文化の多様性という概念自体が伝わりにくいのです。また、反捕鯨の方針が強いオーストラリアにとっては、自国に近い南極海で日本が捕鯨をしていることも問題視されている点であるようです。一方で、一部の団体がとっているような強硬手段では事態を変えることはできないだろうという意見は理解してもらえるようでした。
議論はさらに感情的な側面、そして問題の根本にある部分にも踏み込んでいきました。まず驚かされたのが、同僚がつぶやいた次の発言です。
捕鯨の銛は、クジラの頭に刺さってからボンって爆発するんだよ?」
日本ではあまり聞いたことのない発言に一瞬耳を疑いましたが、このあたりから彼らがもつ意見の根底にあるものがうっすらと見えてきたような気がしました。欧米で捕鯨の問題が議論される際には、捕殺の方法や致死時間がよく争点となっています。こちらでは家畜の飼い方や食肉化の方法なども動物福祉上の観点からメディアでよく話題になっていますから、同様の視点が捕鯨にも向けられることは理解できないわけではありません。議論もここまできたらと思い、ではイギリスでも行われているシカの狩猟とはどう違うのかと正直に聞いてみました。その答えは、「シカは銃で即死だから。」とのことでした。私はシカの狩猟に同行したことはありませんが、これは正直かなり怪しいと思います。国際的な批判を受けて捕鯨やイルカ漁での致死時間を改善させているという話は聞きますが、シカの致死時間の話は聞いたこともありません。
その後に続いた会話によってようやく、最初からどうも噛み合わなかった議論の根底にあるものが明らかとなりました。
「彼らは脳も非常に大きいし、社会活動を行っている(から殺すことには反対だ)。」
隣に座る同僚の発言に思わず耳を疑うと、向かいに座っていた博士学生も
「うん、彼らはとても高度な社会活動を行っている。」
と真顔で応じます。
「クジラは大きいし神秘的で特別。」
そんな意見も聞かれました。それらの発言の真意をまだ信じられない心もちのまま、最後の質問のつもりでこんなことを聞いてみました。
「では、増えている種を対象に、瞬時に捕殺できる方法で捕鯨を行うとすれば、それは受け入れられると思う?」
「科学者には受け入れられるかもしれないけど、多くの人には受け入れられないと思う。」
別々の場面で聞いた異なる二人ともにほぼ同じ答えを口にしましたが、その顔には彼ら自身も感情面では受け入れられないという様子がまざまざと浮かんでいました。
クジラ類は知能が高いから特別という考え方は、過激な抗議活動をする団体やメディアが用いる論理だと思っていた自分にとって、常日頃から科学を共に行っている研究室の同僚がそのような考えを持っているということには、心底驚かされました。こちらに来て初めて本当の意味でのカルチャーショックを受けた気がしています。知能の高いクジラは駄目、シカは問題ない、そんな同僚の意見を前に、真っ先に浮かんだのは有意水準5%の仮説検証パラダイムの問題についてでした。5%を過信することの問題を理解できる科学者が、クジラとシカに境界線を引いてしまうことの理由が正直私には理解できません。しかしだからこそ、彼らの考えの根底にあるものが科学的思考というよりは、文化や宗教、そしてそれに基づく倫理観なのだろうということが実感させられました。もちろんこれは私の同僚4、5人との議論で感じたことですので、こちらの他の科学者が一般的にどのように考えているのか、そしてそういった倫理観の違いが捕鯨問題にどの程度貢献しているのかは分かりません。しかしながら、もし科学者にすら根付いているこういった倫理観がこの問題の根本にあるのだとすれば、問題を解決することの困難さは想像に難くありません。
こちらで生活するようになって、ちょっとした慣習や人との距離感の違いを感じながら、そんな中でも、人のためになることはする・迷惑になることはしない、など自分が育ってくる過程で培われてきたごく当然な道徳や倫理観は、行動判断の重要な基準になると感じていました。今回の一連の議論では、そんな根本的な倫理観ですら文化によっては異なる可能性があるのだということを実感させられました。と同時にこれは、今自分が当然だと思って判断の基準としている倫理観が、全く通じない世界があるかもしれないということを示しているのだと思います。保全科学という分野に携わっている以上、これは大きな教訓となりました。
今回の議論は、彼らにとっても大きな衝撃であったことはその反応から感じることができました。願わくは今回の出来事が、彼らにとっても自らの倫理観から反捕鯨の姿勢を強めるだけでなく、倫理観が全く異なる世界があるということを知るきっかけになってほしいと思います。が、国際感覚が豊かと思われがちなヨーロッパ人でも、西洋以外の世界を本当の意味で経験している人は少ないので、これはなかなか難しいことかもしれません。